初代尼崎保健所長 眞田幸和博士の時代* 金田治也教授**
尼崎市医師会員 眞田幸和先生が平成15年11月、97歳の天寿を全うされ、後継の幸弘先生から会葬御礼と共に作家中島らも執筆「心に残る医師の一言、忘れえぬドクター」という先生の診療態度についてのコピーを頂いた。名刹 廣済寺の通夜の席には年配の人々が満ち溢れ、聞くと「皆んな地元町内の者です、良い先生でした」と言い、臨床医としての先生の人気と人柄の程を感じたことである。参列された会員諸兄も先生を臨床医としてのみ認識しておられることを知ったので先生のご冥福を祈りつつ、記録しておきたい。
小生は平成元年に尼崎市東保健所長に就任したが、所内は荒れ、物は壊れ、至る所がほこりの山であった。まず清掃、修理、資料の整理と保管をすすめるうちに、保健所の前身は大正5年設立の市立伝染病院で、横山エンタツ氏の父親が院長をしていたこと、昭和10年代には大阪大学医学専門部の教育病院として阪大と尼崎市の契約により市立病院が開設されていたこと(空襲で消滅)、近くのJR尼崎駅前(旧神崎駅)の旧小田村役場(後、市役所支所)の市議会堂跡に尼崎保健所が創立され、眞田先生が初代所長として赴任されていたことを知り、先生をお訪ねしたのである。
以下は平成元年10月末、先生が83歳の時、聴取したことである。
先生は昭和6年東北帝大を卒業、加藤内科(後、鳥飼内科)に入局、同内科は教授、助教授、講師(無給)、助手3人で構成され、医師35人程度の医局であった。大学院は4年制であったが4年を超えて在学する人もいた。入局して1、2年目は一般内科研修、3年目は結核病棟配属、4年目は伝染病棟配属で、4年半は無給が原則、大学院を終了し、学位を取得、昭和11年ようやく月38円の手当てが支給されたが、金のことに文句をいう者はいなかった。教授の方針でアルバイトは絶対させなかった。当時の検査は一晩を要するものもあり、伝染病棟を担当すると細菌培養・検査を全部自分で行うので家に帰ることができなかった。
6年目の昭和11年に、父が奈良にいて(奈良女高師教授、後に広島文理大学教授)、関西に来いというので、先輩の内務省の課長の紹介で内務省衛生技官(高等官、正15位)となり、新設された県立尼崎健康相談所に勤めることになった。研究を終了していて院長として就職可能であったので教授に強くお叱りを受けた。
健康相談所は、神戸、次いで尼崎、西宮、姫路、篠山の順で建設され、特に神戸の相談所は全国で初めてのもので有名であった。当時、軍需産業が盛んで男子の職工が工業圏に集中したが、結核が多発したため、ドイツのヘルスセンター方式をモデルとして健康相談所が開設されたのである。
尼崎市では昭和11年開設された県立西宮病院尼崎分院にレントゲンが置かれたが、一般の医療機関にはほとんど置かれず、健康相談所は無料のレントゲン検査を行い、週5日間、毎日50人前後の受診者がいた。結核集団検診に興味があり、新しい施設を誇りに思っていたが、給料は少なく、妻は何時も不平をこぼしていた。軍部が意図したように運営された相談所は兵庫県だけで、大阪等の軍関係者がしばしば視察に訪れた。職員は医師1、X線技師1、看護婦2、事務員2名であった。当初、医師会は健康相談所を危険と感じて批判を行ったが、治療は一切しないということで了解を得た。健康相談所では血沈、X線検査、喀痰検査、診察、病人を発見すれば医療機関に送り、栄養指導も行った。後に移転新築された城内(阪神尼崎駅前)の健康相談所では女医も加わった。結核以外に脚気が多く、結核、脚気に対する栄養指導も行った。診断された結核は、早期浸潤、肺門リンパ腺腫脹、肺尖カタル、肋膜炎、空洞が主であった。市内医療機関からのレントゲン検査の依頼にも応じた。
昭和14年春、県立尼崎保健所として新発足し、所轄は警察、栄養指導部が新設され(医師2、看護婦5、X線技師1、栄養指導員等がおかれた)、所長は城内小学校の校医も兼任した。業務は健康相談所のときと変わりなく、X線を備えた新しい名称の「保健所」を誇りに思って働いた。
昭和16年、召集を受け陸軍病院に勤務し、昭和20年に召集解除となるも患者がいるのに医師不在なので半年間、陸軍病院にとどまり、昭和21年、保健所に帰ったが、保健所は人員も予算も無く、仕事の出来る状態ではなかった。給料も安く、県から来た役人(事務官)が支配しており、言うことに食い違いが多く、態度も悪く、昭和22年退職して開業されたとのこと。「医師の勤務する場所ではなくなっていました」とポツンといわれたのが印象的であった。保健所は技術行政の拠点であるのに、医師を不要として下位におく風潮は早くも生じていたのである。しかしその53年後に駅前再開発で移転してきた保健所と同じビルに診療所を構え、保健所の隣の土地で大往生を遂げられる結果となった。
戦前の保健行政は内務省警察部局の下におかれていたが、昭和21年5月の総司令部覚書によって東京都、京都、大阪、神奈川、兵庫等12府県に衛生部設置の告示があり、同22年には地方自治法が制定され、全府県に衛生部設置をみることとなる。先生の退職はその直前のことで、行政体質の被害を受けられたのである。
小生は終戦時にGHQに呼び出され、日本のモデル保健所を作り、後、東大公衆衛生学教授となられた塚原国雄先生を師と仰いでいるが、その際、同行した事務官僚は「従来通り保健行政を警察行政に残して欲しい」と懇願したという。GHQのサムス准将は「日本の公衆衛生が進歩しないのは、専門家が専門家でないものに左右される仕組みになっているからである」と衛生行政の独立を強調、警察から分離されたが、伝染病の流行に便乗して明治30年制定の「伝染病予防法」は残存、行政体質の根本的な変更は困難であった。今日も保健行政は弱体化しており、サムス准将の言葉がおもいだされねばなるまい(拙稿、園田学園女子大学論文集、第37号)。
ところで眞田先生が尼崎市に赴任された理由の一つは大学教官の待遇である。懇意にしていた患者会の会長は兵庫県下唯一の中等工業学校であった神戸工業学校を経て、海軍技術学校に進み、呉の海軍工厰の技術少尉として、同じ昭和11年に30円の月給で夫婦2人の官舎暮しには十分であったとのことであるが、戦前の医師の待遇はあまりよくなかったようである。前出の東大教授は、同じ昭和6年卒で昭和7年に伝研(現東大医科研)の助手格(正規助手ではない)で45円の月給を得て、「東大医学部卒業生としては破格の待遇として評判になりました」と回顧しておられる。昭和15年東大医学部卒の数人が1年間の公衆衛生院研修を修了し、技手、判任官8級俸55円で任官、そのうちの一人(後に小児衛生部長)が薄給だと申し出たところ、隣の伝研は45円だと慰められたという。第2次大戦前、「医師になるには金がかかる」といわれ、特定の階層に偏さざるをえなかったゆえんである。
戦後も保険医に厳しい時代があり、医師の子弟が医師を志望しない現象が見られたが、現在も医療財政危機、国立大学法人化が進行、医師の養成費や処遇の不安定条件が進行している。国民のためによい医師を確保する立場からの主張が必要である。「医は仁」という言葉が冒頭にくる眞田先生の時代を医学史の一部として記憶し、医療政策を考える参考として頂きたい(兵庫県医師会報
No. 606、2004年4月号 )。
平成20年4月
*本稿は兵庫県医師会報に掲載された一文を著者、金田治也教授が尼崎市の公衆衛生史の認識を普及させる目的のために再編集し寄稿して頂いたものです。
**金田治也教授プロフィール:尼崎市東保健所、同北保健所、同中央保健所長、再編後の初代尼崎市保健所長、園田学園女子大学教授を歴任し現在、甲子園大学栄養学部教授